インタビュー(日本語版)

インタビュー

ヤスパー:まずは二つ質問があります。
あなたの作品の原型は何ですか。
あなたの作品は「ペインティング」ですか。

アドリアン:今から3年前にドローイングとカラー・スタディだけに集中しようと決めました。なので、私の作品は「ペインティング」はなく「ドローイング」です。「スタディ」という言葉も好きです。ペインティングやその歴史の含みから解放されて自由になれる気がします。美術史を考えると矛盾しているかもしれませんが。

古来ドローイングはいつもペインティングの側に控えていました。ペインティングがずっとアート形式の最たるものだと考えられていたからです。ですが、私にとって興味深い人達がたくさんドローイングをしています。生物学者、錬金術師、そしてもちろん科学史の重要人物達。例えばブルーノ、ガリレオ、ホイヘンス、デカルト、そしてポアンカレ。ドローイングは、「借用」が模倣にならずに、自分自身のやり方で自由に絵画を研究できると感じられる方法です。紙媒体、単一性、平面性といった拘束があってこそ、ドローイングは実験的な技法となり、着想が決め手となるのです。

ヤスパー: あなたはペインティングから何を取り入れていて、それはどんな意味がありますか。

アドリアン: ある考古学者が19世紀と20世紀のヨーロッパ前衛派だけの資料と作品を手にしているとします。そしてこれらの芸術運動にまつわる見解や宣伝文句をあまり真面目に取り合わないことにした、と想像してみてください。例えば「絵画は死んだ」とか「1907年、カンディンスキーが自分のスタジオでカンバスを逆にした時に抽象画が生まれた」とかの説です。この考古学者は、作品に付いてまわった高尚な常套句とは関係なく、アイディアと形式の点にもっと価値を感じるのではないでしょうか。初期のキュビスムや未来派やオルフィスム―これらにはかなり共通点がありますが―が何故言い争いをするのか理解できないでしょう。彼らは中傷や煮え切らない議論をやりとりし、自分たちが「真実の」前衛派で、敵は「模倣者」であり「時代遅れ」であることを指摘しようとしました。

この考古学者はまた、何故モンドリアンの「フィギュラティフ」作品はカンディンスキーのインプロヴィゼーションより「抽象的」ではないのか、何故カンディンスキーは当初「抽象」と呼んだものを最終的には「コンクリート・アートの”最たるもの“」と呼んだのか、よく分からないかもしれません。

それよりも彼は恐らくコネクション、共通する部分に注目するのではないでしょうか。結局スーラの『シャユ踊り』とボッチョーニの『La Risata(笑い)』には大きな違いはないのです。彼にとってはスーラとボッチョーニと12-13世紀のフランスのステンドグラス作家は同じページにいるように思えるでしょう。ある意味、彼らの作品は同じなのです!どの作品にも、大きな構造の中で互いに作用しあう、小さくて独立した彩色の空間があります。この共通した特徴のせいで、それぞれの異なる立場や時代、イコノグラフィの部分は忘れられてしまうでしょう。その変わり、共通概念である幾何学的配列、空間と色の間の複雑な調和、図案スペースの分割―対立法を表す多彩装飾―がヴィジュアルセンセーションの複雑な融合を生む様子、などに焦点を当てるでしょう。
印象的なある種の特徴を結びつけることで、この考古学者はヴィジュアルな課題を「考案する」でしょう。これが私の自分の作品へのアプローチです。

ヤスパー:でもあなたは考古学者ではありません・・・。

アドリアン: はい、でも考古学者が自分の職業の定めを忘れ、彼自身の洞察を検証しようとし、彼が見たもの、理解したもの(もしくは信じたもの)を再生しようとする限りにおいて、この比喩は当てはまります。

彼は研究室でそれらを全てゼロから学びました。まずは自分自身で根本的な問いを設定することから始め、この問いはすでに他の人々も発しているのか、そしてそれは絵画についての「真の」根本的な問いであるのか考えました。これらのアーティスト達は何を解決しようとしていたのだろうか、またはどうやって自分達で課題を作り上げていたのだろうか、と思いました。絵画の歴史はこうした問いと課題の山です。私が色彩研究においてよくベースにしたのはスーラのそれと、あとはヴィジュアルアートも音楽のように「作曲できる」という考え方です。音、リズム、感覚をまとめるときのように、論理的な構成を互いに補い合って展開させるのです。ヴィジュアルアートとアコースティックアートは数多くの理由によって異なるのでとりあえずその話は避けますが、それでもこのふたつを比べるという考え方はとても刺激的です。

ステラ:「色彩研究」というのはどういう意味ですか。それからどうしてその研究に至ったのか教えてもらえますか。

アドリアン:色というのは複雑で、理解・精通するのは難しいです。体系的に調査しない限り、明確な概念をもつことは困難だと思います。「記譜法」や「文法」を学ぶのに近いと言えるかもしれません。そしてこれらには非常に多くのアプローチが存在します。私はこれを一般的な物理学の本や色彩についての本や手引書を読む、あるいはシンポジウムに出席するところから始めました。検証に次ぐ検証をしてようやくそれが何なのか、自分に何ができるのかが分かり始めました。

色について興味を持ったのにはいくつかの理由があります。10年前、スティーブ・ライヒ、ヤニス・クセナキス、ジョン・ケージに出会ったのとちょうど同じ頃、パリで「フォーヴィスム」の大きな回顧展がありました。その頃私は(お椀やベルなどの音で)録音したサンプルを使ったサウンドオブジェクト作成し、色々なスピードで演奏することに熱中していました。それらを「音階」に分けたり、楽曲にしたり、インベンションに組み込んでカセットに録音したりしました。

ジョルジュ・ブラックのカンバスのような、白やグレーを背景にした色の散らばりを見ると、その中にどうしても「メロディー」や「ポリフォニー」を見てしまいました。それらは共に描写風景にも彩られたカンバスにも存在していました。多分これが私のアートの見方及びとらえ方として根付いたのだと思います。長い間私は、音波の周波数はまさに光線の周波数に呼応し得るといったことを信じたりしていて、知識故の「病」のようなものに罹っていました。不可思議な働きに目がくらむのです。この通りという訳ではありませんが、ニュートンでさえもそういうことがありました。

本格的にドローイングに取り組もうと決めたとき、私のアプローチは音の研究をした時期にとったやり方とほぼ同じでした。最初にしたかったのは意のままの色彩領域を手に入れたいということです。ですが、コンピュータを使って録音再生するスピードを変化させるのと異なり(例えば2倍速にすれば1オクターブ上がります)、紙の上の色を定量化するのは大変に難しいことです。異なる色の点からグレーを生み出そうとする最初のドローイングシリーズの後で(全くうまくいきませんでした)、本格的に色の問題を研究しようと決めました。

ヤスパー:音楽院や学校で音楽を学ぶと、ハーモニーや楽曲分析、作曲、詠唱、管弦楽法などを学びます。現在の多くのアートスクールでは、ずいぶん前から伝統的な教育を止めています。この状況をどう思いますか。

アドリアン:その点ですが、私にとって興味深いアーティストは皆、自分の受けた学問教育を認めていません。何も得られなかったという訳ではないのでしょうが、彼らの学校は美術史や研究、実験、考案を中心にしていました(マネやセザンヌ、スーラなど実際そうだったようです)。

彼らは、興味深い作品にはその当時の可能な方法で、自分自身の「解釈」をしていました。スーラはシャルル・ブランを読んでヘルムホルツやシュヴルール、ルードによって着手された科学研究を理解しようとし、それをヴィジュアル化しようとしていました。それは同時にドラクロワや印象派画家達についての解釈でもありました。

アートスクールに行けば、まず時間があります。そして現代アートと美術史の情報が得られます。そこでは暗黙のうちに「スタンダードな」性質や振る舞いが育成されます。それでも、学校とアートの間には大きな隔たりがあります。社会的に隔たりがあるというだけではなく、学校が研究や実験を「教える」ことができるのかどうかが私には疑問です。美術館や好奇心の方がもっと大きな役割を果たすと思います。それでもアートスクールでとても面白い人々に会うことがありますし、それによって豊かな時間を過ごせ、「充実する」ことができます。

事実、私が今使っている道具はどれ一つとして、学生時代に紹介すらされたことがありません。誰も色彩計を扱うのがこんなに簡単だと教えてくれませんでしたし、ソフトウェアで、まるでマトリックス表のように簡単に論理演算、色彩混合の計算、たくさんの興味深いプログラムが可能になるとも教えてくれませんでした。

もちろんアートスクールは色彩や応用技術の学校ではありませんし、もう少し一般的で活気のある教育を提供しなければならないのは分かります。でも一方で、多くの教師がいつか起きるはずのパラダイムチェンジに対して限られた見解しか持っていません。単に新しいツールの使い方を知らないだけの人もいますし、それがアートの道具になることすら想像できない人もいます。大抵が皆、時代の流れを自分が感知したいように感知するようです。生み出された対象が気に入らないという名目で何かを拒否するのは簡単なのです。「デジタルアート」が海外やドローイング、彫刻などと同じ「伝統的な」媒体になり得ることに気付いている人はわずかです。「スーパーテクノロジー」を使用してのインスタレーションだけでなく、他にも創造することができるのに。「技術」の授業は学生にとって退屈なだけでなく、毎年次々と何か新しく出てきたものに変更され、それがまたすぐ古くなります。でもちょっと表現が大げさかもしれませんね。別の角度から見た場合、あまりにも目まぐるしい変化は、困難と忍耐を経て培ってきた価値や基準―前世代から進められ、受け継がれてきた価値―を不意に壊してしまうこともありますから。

ヤスパー:現代アーティストの中において潜在的なアンチテクノロジーやアンチ科学を感じ取ったことがありますか。

アドリアン:そういう敵意にはあまり出くわしたことがありません。私の作品はまだあまり公開されていないですし。それに私は自分の研究が科学的だとは思いません。研究室の技術を使いますが、私が作り出すものは科学ではありません。

私が時々気付くのは知識や理解の欠如です。独特な作品を理解したいのにできないとき、それは秘密主義であるとか不可解だとか思う人がいます。私の作品も、私のやり方を理解するよりももっと単に見てほしいので、これは残念なことです。理解は二次的な価値です。クラシック音楽を考えてください!

ステラ:どうしてこのような見方が生まれるのだと思いますか。

アドリアン:理由が何であれ、このような見方は作品への直観を抑制してしまうと私は固く信じています。実際にその解釈自体を意味にしてしまったり、もしくはアートではない他の何かを相手にしたりすることになります。

例えば私はフィボナッチの数列の黄金比に取りつかれているアーティストを知っています。彼が知っている色のセオリーは秘儀的なものです。彼の持っている本は色について言及している放射探知術に関するもので、そのスペクトルを通してしか色を見ることはできません。もちろんこれはちょっと極端なケースですが・・・。

この手のものに対して、19世紀から20世紀にかけて大きな芸術運動と批判理論がありました。例えば、モーリス・タックマンのカタログ『スピリチュアル・イン・アート、1890年―1985年の抽象画』や、ルドルフ・シュタイナーのドローイングがスミッソンやロスコの作品と一緒に展示されたポンピドゥーセンターでの『Traces du Sacré 聖なるものの痕跡』展などです。

私はこの現代アートのたくさんのルーツ―合理主義、機械主義、神秘主義-がとても好きです。的を射ているし、興味深いと思います。それと同時に何か危ういもの、モダンアートの知識に対しての侮辱や、この時期の作品の内側からの潜在的な修正を感じます。シュタイナーが興味深いことを書いていますが、事実「アントロポゾフィスト」であったモンドリアンが実際には本物のアートを生み出したというのです。この展覧会の背後には二人を同じような立場に立たせるという意図があったというわけではありません。でもモンドリアンの絵は見ればすぐにわかるのに対し、シュタイナーのスケッチは全くそのケースではありません。
モンドリアンの大いなる神秘主義は彼の作品を支配することはなく、それは何よりもまずヴィジュアルアートであったのです。

ヤスパー:ではあなたのドローイングのための理想的な環境とは?

アドリアン:ひとまず十分に快適であることです。うるさくない部屋で、ソフトな壁と調整可能なライト、多少の広さと時間があれば良いです。作品には、後に見てくれる人を念頭において、ディテールや作品が組み立てられたトレースをできる限り残すようにしています。ほんの少しの忍耐と好奇心をもって見てもらえれば、改善やエラーを経て、段階的・論理的にまとめられたすべてがつかめるはずです。

また、私の作品の出来には差異があります。一点一点が色彩構造及びヴィジュアル構造において複数の研究成果のようなものだからです。何点かをまとめて見ていただければこれがスタディだということがすぐにわかると思います。

ステラ:色彩構造というのはなんですか。

アドリアン:私の色と光のヴァリエーションのシリーズは幾つかの基本ヴィジュアル構造によっています。コントラスト、透明度、彩度、色調は、対象物からの光と人間及び動物の視覚システムの間のリンクから派生します。両方を視覚分野の中で統合するのです。なので、私が言う「色彩構造」とはこのプロセスとそこから生み出される本質的な印象ということです。

ヤスパー:スタディとは継続的な研究のプロセスの「ある時点」ですか、それともその「結果」ですか。

アドリアン:両方です。両方共にあり得るパレットなのです。スタディの大体の方向からそれないように、個々の部分的なソリューションとしてまとめるようにしています。一枚の紙に色々な手段と異なった配列を同時に試します。ドローイングのすべての箇所がテストです。このテストの和は検証であり、この検証は仮の結果で、様々な種類の調和を伴う未完成の成り立ちのかけらです。

これはペインティングと大差ないと思っています。『La Risata(笑い)』はスタディですが、それと同時に芸術の最高傑作であり、哲学及びヴィジュアルの探究です。この作品が「完成」しているかどうか、誰にわかるでしょうか。終わったと言える瞬間があるとすれば、それは作者が作品から退くとき、作者が次の作品にとりかかるときでしょう。
これは中世の建築物に見られるすばらしい特質です。すべての大聖堂は未完成です。完成されたとしても、ケルンのように、かなり後の時代になってからのことです。生来リミットをもたない物というのがあるのです。各建築はそれぞれ見事に建築上の様々な変化を経ています。この時間外に計画された不連続性は-その巨大なサイズよりも-私にとっては重要な性質です。至るところにちょっとした修正や何か思いがけないものが潜んでいて息をのみます。

ステラ:あなたは音楽に関してもよく言及していますね。作曲家は自分が組み立てた音型と作品のタイトルを深く結びつけるように思えます。差支えなければ、あなたの作品のタイトルの意味を聞かせてもらえますか。

アドリアン:これは私がまだ当分手を付けないでおく課題です。幾つかのドローイングのタイトルは展示や再制作の度に名前を変えています。タイトルは目と思考プロセスに直接働きかけるので、論理的で正確な記述にしたいと思っています。

「スタディ」というのが大体のタイトルですが、それに「カラー」「グラデーション」などの語や「一連の」「個別の」などの限定形容詞を補足しています。これにシリーズ番号も加えることがあります。

ヤスパー:最近の話では、「関連性」という言葉が好きだと聞きました。あなたの使うピグメントの色の関連、カラーサンプルの関連、作品の関連、ですね。

アドリアン:視覚体験には対象者、及びヴィジュアルな、目に見える対象物が必要です。ここには視覚の上だけでない「関連性」が存在します。例えば広告主は、イメージによって人が「そそられる」ということを知っています。

最近私は「色の追加」を調べています。それがどう引き起こされるのか、特に「中間色」について知りたいのです。例えば青紫と黄緑の混合です。この二つの色の割合を少しずつ変えていくと、この二つの母体色の中間辺りに色調が変化します。そこには中性及び無色、つまり「グレー」が現れます。
二色だけでなく、三色、四色、五色でも変わりません。原則はいつも同じです。バランスのとれた要因を作ってやると色成分の割合が中和するのです。

そこにはいくつか興味深い点があります。まずは、明るい色のラインが無色を作り出すと推理されます。2つ目に、この現象によって新しい関連が生じます。ドローイングを遠くから見るか近くから見るかによって、スケールが完全に異なります。
空間が生まれ、まるで作品の周りの「力場」によって近くに引き寄せられるか、遠くに立たされるか、といった感じです。ここで試す関連性は動詞(加える、減らす、重ねる、生じる、見る、中和する、等)を使って表すこともできます。こうした動詞が、紙の上の実質的な作業やヴィジュアル感覚などに論理的に働きかけます。

ステラ:「無色」というのは実際に存在するのですか。

アドリアン:それは何しろどのセオリーを採用するかによります。アリストテレスやゲーテなどの古いパラダイムに理性に基づくならば、色とは「陰影」です。これは黒(暗)から白(光)までのびる軸に沿っています。大体以下のような順番です。白、黄、赤、紫、緑、青、黒。

この論理においては、「色」とは単に中間段階を意味します。あるいは、「部分陰影」と言ってもいいでしょう。色とは光と暗の間のどこかに位置するということです。
この論理法は英語圏の表現にまだ残っています。「アクロマティック(無彩色)」と言えば「ピュア(混じりけのない)」もしくは「中間色・無彩色」のグレーということですし、黒と白と言えば色が存在しないということになります。
これは「色の純度」という観念と関係のある考え方です。この考えは二千年もの間に渡って幅を利かせていますね。真水と純粋ガラスには色がない、色がついていればそれは「不純物」の印、というやつです。

もしくはモーリス・ドニの視点があります。「ペインティングとは....原則的に適当な配列で集めた色に埋め尽くされた平面である」。ということは、グレーは中間色であろうとなかろうと、どうしても「色」にあたるわけです。

色を測定する科学である色彩測定では、すべての色がパラメータの形で還元されます。これらのパラメータ間の関係が、任意の測色スペース内で正確な色を表します。そこでは「中間色」のグレーは概して参照ポイントあるいはセンターラインとなります。私はこうしたパラメータで遊んでみたかったので、不透明の彩色ラインを並べて重ね合わせたシリーズの、自分自身の幾何学を少しずつ組み立てました。

ヤスパー:あなたの作品において、自分で組み立てた論理から生じる部分と、使用した画材での図案との割合はどのくらいですか。

アドリアン:半々です。色彩測定は19世紀のマックスウェルを皮切りに長い歴史があります。20世紀に入ってからは国際照明委員会(CIE)が「標準」を指定しました。他にも種類はあるのですが、今はこれが主流です。

市場に出ているすべての色彩測定器がCIEの標準を採用しているのは確かです。色測のマスターシステムなのです。リサーチを続けるうちに、私の知る範囲でこれらの指定標準(CIE RGB, XYZ Yxy, L*a*b*等)以上に信頼できるツールはないと納得するようになりました。
とはいえ、私はこれらの標準を「標準的に」扱っているとは言えません。このツールでは私がよく伴うようなある種の不確定事態では今一つの対応なのです。測定器には測定器の測定基準があるからです。

一方で、最近CIEは実践にはかなり複雑なCIE CAM(カラーアピアランスモデル)をのぞいて、各システムがある測定セットを採用しています。大変厳しい観測結果とライトコンディションをベースにしているので、有効性を保証することだけはできます。かなり範囲が限られているのです。私は認識論的な欠陥があるのではと疑っているのですが。
どんな技術も暗黙のうちにそれ自体の理論と「適正使用法」を備えています。産業用デザインの技術が、私にとって興味深い課題をすべて決定していくとは思えません。(この前の色彩測定器は自動車産業の方から購入しました)
それでも、ヴィジュアルアート分野の長期に渡る課題において、色彩測定が新たな方法論的なアプローチを生み出すのも不可能ではない、ということだけは言えるでしょう。

Translated by Tomomi Morohashi